2009年8月6日木曜日

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芸術について考えるとき、芸術とは真実を求める人間のための哲学であると思う。けれども真実を求めることは人間にとって必要なことだと思うのだが、この現代社会に生きるうえではそれを考えずとして生きる事が出来るのが僕は恐ろしいことだと思う。なぜならぼくらが歯車になったとして、モーターは別に存在しているからだ。
ではもしこのモーターが故障していたら?穴があいているのに気付くことなく穴に落ちてしまう欠陥もちのモーターなら?生きていく事は困難である。そもそもこの現代社会は巨大な欠陥集合住宅である。それは学生闘争が終わってから30年、成長することを忘れた機械社会である。そのさびだらけの社会に対して批判、行動、選択、破壊することができるのは革命家であり、芸術家である。真実を求めることを諦めれば、いつか、いや明日にでも穴に落ちてしまうだろう。
僕にとっての真実の表しかたは表現することである。このとき表現するということは、ただものをつくることではない。常に表現者は創り続けなければならないが、創るという僕にとっての定義は挑戦することである。穴をふさぐ必要はなく、広げなければいけない。そして試すことにある。間違いかどうかは、表現してみなければわからない。即ち、表現してからでないと真実が抽出できるかどうかさえわからないのだ。よって僕は真実の仮説をたてて、それを証明し、反省し、学ぶことを繰り返している。そしてそれを常に心がけなければならない。
いつの時代も社会とは、概念のバランスで成り立っている。だが現代はバランスが崩れても社会は崩れない。欲望のためだ。たとえば今叫ばれている格差は言ってしまえばどの時代にもありうることである。必然の論理。それは社会を崩すことには繋がらない。
社会と真実の関係は実に微妙な関係にある。社会には真実を構成するための相反概念、事象にあふれることで成り立つ。つまり相反関係のもとに真実が成立する。ぼくは今、この相反関係を連鎖的な提示によって真実を導きだそうと試みる。
それが間違いだったとしても、ありきたりなルーティン(惰性)になることなく、スパイラル(成長)として真実に近づくからだと信じる。また、それが芸術の可能性だと信じる。








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